文章:中山るみ
私には
冷たい北風が吹くころになると思いだす人がいます。
今から45年ほど前、私が5歳か6歳の子供だった頃
住んでいたのは、富士山の北麓に広がる小さな街で
毎日のように富士山を仰ぎ見ながら、その山が日本人にとってどれほど
特別なものかも知らなかった、そんな随分と前の話になります。
空気の澄んだ田舎町、電車は1時間に1本が2本だけコンビニはまだ世の中になく、銀座に上陸したハンバーガーショップはテレビの中の出来事でした。
住む街はぐるっと360度が山。ある日テレビ番組で、海の向こうに外国があると話しているのを聞くとその情報は私の中で、富士山の向こうはアメリカと勝手に変換され記憶に刻まれました。暫く私は真剣に富士山の向こうはアメリカだと思っていたのです。
無邪気というか少しイタイ子供だったと思います。
その頃、家の近所にはアパートがあって
チーちゃんという私より一つか二つ年上の女の子が住んでいました。
チーちゃんの家族はお母さんとお姉さん。お父さんはいませんでした。
アパートは2階建てでお世辞にも綺麗とは言えず、チーちゃん家族の住む部屋は1階で昼間でもなんだか薄暗かった気がします。
私はチーちゃんが好きでした。長女の私が欲しくてたまらなかったお姉さんのような存在。もしかするとチーちゃんも私を妹のように思っていたかもしれません。
「チーちゃん、あ~そぼ」「る~みちゃん、あ~そぼ」と誘いに行ったり来たりままごとに、縄跳びやゴム跳び、春には草餅になるヨモギ採り、夏は虫取り、秋はススキで箒作り、冬は雪合戦と遊びには事欠かずスマホのない時代でしたから今よりずっと不便なはずなのに、今よりずっと豊かだった気がします。
日が暮れると「また明日」と別れるのです。それが特別でない普通の毎日でした。そう特別ではない普通だと思っていたのです。
しかし、チーちゃんとの普通の日々、明日は突然来なくなりました。
北風が冷たい朝、母が私に「今日はチーちゃんのところに行かないように」と言ったのです。母は何故なのか理由はいいませんでしたが、チーちゃんのお母さんが、お酒に酔った状態でお風呂に入り心臓麻痺で亡くなったと大人が話していたのを耳にしました。まだ人が亡くなることに対して免疫がなく理解していなかった私は、悲しいとは思わず、ただ何故かチーちゃんが可哀想だと思った気がします。その日は母の言いつけを守り私は翌日、チーちゃんの住むアパートに行きました。アパートに着くと北風が頬を刺すように吹いているにも関わらず部屋の窓が開いていて、狭い部屋の中に黒い洋服を着た大人が何人もいて、部屋の隅っこにチーちゃんとお姉さんが座っているのが見えました。普段から薄暗いアパートは黒い人たちでより暗く、その人たちは誰も笑っていなくて、笑っているのは花に囲まれた写真の女の人だけ。私は急に恐くなり冷たい風を切るように走って、走って、家に帰りました。
数日後アパートに行ったときには、人の気配がなくシーンとしていて
「チーちゃん、あ~そぼ」と鍵のかかった扉に向かって数回言ってみましたが
返事はありませんでした。
後からきいた話では、姉妹は親戚の家に引き取られたそうです。
私の中のチーちゃんの記憶はここまでしかありません。
チーちゃんがいなくなって寂しかったはずなのに、その感情は記憶になく
母に尋ねると私は何日も泣いていたらしいのですが覚えていません。
時間が経過し、いつしか私が富士山の向こうがアメリカではないと認識した頃、
チーちゃんのことを思い出す回数は減り、いつの間にか顔も忘れてしまいました。チーちゃんの本当の名前が、チエだったのかチヅコだったのチヅルだったのかさえも思い出せません。
昭和、平成、令和と変わりチーちゃんの住んでいたアパートは駐車場になっています。一緒に遊んだ空き地はなくなり、よく遊んだ公園は外国の観光ガイドに掲載されメディアにも取り上げられたりして、桜の季節になると日本だけでなく海外からの人で賑わうようになりました。私も当たり前ですが変わりました。
変わらないのは雄大な日本一のお山、富士山くらいでしょうか。
チーちゃんも変わっただろうな。どんな人生を送っているのか
私のことを思い出すことがあるのだろうか
どこかですれ違っても、きっとお互い気付かないだろう。もう2度と会うこともないのかもしれない。どこかで幸せに暮らしいて欲しいと思う。
心からそう思う。
11月、ふと冷たい風を感じると私はチーちゃんを思いだします。
この文章を書きながらあの言葉を数十年ぶりに言ってみたくなりました。
「チーちゃん、あ~そぼ」
《終わり》