指名数とパイパーエドシック

文章:中山るみ

パイパーエドシック、ご存知の方も多いと思うが

赤いラベルが印象的なシャンパンだ。

これは、このシャンパが私の仕事の指名数を一気に上げた話だが、

パイパーエドシックが話に登場するまでには少し時間をいただきたい。

時は20年ほど前に遡る

30歳の私は母に司会事務所に所属したいと話した。すると母は真顔でこう言った。

「それは頭が良くて、顔が綺麗で、話が上手な人がする仕事でしょ。
やめておきなさい」 母が言ったことを言い換えれば
「あなたは頭が悪く、顔が良くなくて話が下手」ということになる。
かなり辛辣な言葉の羅列だが、間違ってはいないのだから
私は反論できなかった。

私は家庭の事情で高校を卒業してすぐに就職した。
それから何度かの転職をし、その頃は地元の会社で営業事務をしていた。
仕事に不満が有ったわけではないが満足もしていなかった。

10代の頃『つまらない大人になりたくない』と漠然と思っていた私は、
いつしか『つまらない大人』になっていた。
正直これでいいのだろうかと焦りがあった。
そんな時、新聞求人欄にあった《司会事務所 新メンバー募集》
が目に留まった。
『これだ!』と私の中で閉じ込めていた思いが溢れだした。
子供の頃から目立たない影の薄い子。
人前で目立ったことをした記憶はない。
もちろん見た目も話すことにも自信はなかった。
だが、私は子供の頃から人前で何かをするということに憧れていた。
しかし常に無理だと諦め、自分で胸の深いところに閉じ込めて鍵をかけてしまっていた。
その鍵を30歳、三十路と言われる歳になって開けてしまった。
もうその思いを抑えることが出来なかった。

私は、母の忠告を無視して司会事務所に応募し、
事務所の研修を受けることになった。

この事務所こそ、ボイスルームである。

10数名いたはずの研修を受けていたメンバーは一人減り二人減り
数か月後には数える程になっていた。
私は30歳という年齢であとがないとかなり必死に頑張った。
すると、奇跡的にも仕事がきたのだ。
最初の仕事は披露宴の司会だった。
そこから暫くドタバタ騒ぎが始まるが今日はその話はやめておこう。

ボイスルームは当時テレビやラジオやイベントを担当する
元テレビ局、ラジオ局のアナウンサーチームと
披露宴担当するチームに分かれていた。
私は披露宴を担当するチームのメンバーだった。

所属から数年後決して順風満帆ではなかったが、
月に数本の披露宴を担当するようになった。
だが、その数はなかなか増えていかない。

私はなぜ仕事が増えないのか。なぜ指名が少ないのか、考えなかった。

言っておくが何も考えなかった訳ではない。
というか考え方が違った。
私はどうしたら仕事が増えるのか、指名が増えるのかと考えた。
今にして思えばこれが良かったようだ。私は脳科学に詳しくはないが、どうやら《なぜ》だと脳は後ろ向きに考え言い訳を探す。
《どうしたら》は脳が前向きに答えを探しにいくそうだ。

ここまで読んでくださった皆様ありがとうございます。
ようやくパイパーエドシックが登場します。

その頃、新しい披露宴会場がオープンした。
小高い丘の上に建てられた白を基調とした気品ある建物。
演出も料理も洗練された会場のコンセプトは、
ラグジュリ―なウエディングだった。
その会場で乾杯のお酒として出されていたのが   
パイパーエドシックである。

先に書いたが私はどうしたら仕事が増えるのか、
指名が増えるのかを考えていた。

そこで私は、自分の強みを活かそうと思いついた。
私の強み、それは声。声を褒められることが多かったのだ。

次にその声を聞いてもらえる場面はどこかを考えた。
それは乾杯の準備中だ。披露宴に出席したことがある人なら分かるだろう。
あの時間は特にゲストはすることがなく歓談といっても乾杯前だから
そんなに大きな声で話す人もいない。
ならばあの場面でゲストが耳を傾けるようなことを言えばいいのではないか。
さて、ゲストが耳を傾けるようなことは何だろう。
それは、他の会場では使われていなかった乾杯酒、パイパーエドシックだった。私はパイパーエドシックについて調べてコメントを作成した。

『誕生から220年 レッドエクストラバカンザ、赤の祭典をテーマにしたパイパーエドシックです……』

これがはまった。
ゲストだけでなく、中山さんが話すと
拘ったシャンパンがより高級に伝わると、
会場スタッフから高評価をいただけたのだ。
それがきっかけで私はその会場からの指名が一気に増えた。

面白いもので、指名が増えると自信が生まれ、
次はあれをしてみようか、
ここはこうした方がいいかなと、考えも生まれる。
他の会場の指名も増えていった。
それから私はイベントの仕事も増え、
40歳の時に地元甲府市に本社があるFM局でレギュラーコーナーを担当し、
その後東京のラジオ局でも仕事をした。

学歴も華々しい経歴もない私が、
今もボイスルームのメンバーとして仕事をしている。

感謝してもしきれない人達が沢山いる。

そして、パイパーエドシックも私の大恩人だ。

最後に、私はお酒が全く飲めない下戸である。

《終わり》

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